2014年9月24日水曜日

線量が上がった時に誰が決死の作業をするのか?

   日本における原発の一つの未解決の問題は、いざ過酷事故が起きてしまった時、事故の拡大を防ぐために、誰かが急性症状が生じるような、あるいは致死量の放射線被曝をするリスクを負って作業する必要が生じた場合に、誰がそれをやるのかということが制度的に何も決まっていないことだ。
   電力会社やその協力企業には労働者の命や安全を守る義務があり、現行法令では緊急時であっても100mSvを超える被曝をさせてはならないことになっている(いま政府はこれを500mSvに上げようと検討している)。また、イチエフ事故後に定められた自衛隊の原子力災害対処計画では、自衛隊の活動は原発の構外に限定されている。
   本当の「決死作業」というものは電力会社の社員にも協力企業の作業員にも自衛隊員にも想定されていない。すなわち、事故で現場の線量があるレベルを超えれば、誰も近付けずコントロール不能となる。朝日の吉田調書報道も、おそらくこの原発の持つ本質を指摘したかったのだろう。しかし、だ。
   3月14日の夕方から翌15日の早朝にかけて2号機で破局的な事態が進行する中、東電本店や現場の吉田所長が、作業に直接関係のない所員の福島第二への一時退避の準備を進めたのは、社員の命と安全を守る義務を果たすための当然の行動であったと思う。
   そんな中で、吉田所長は「一緒に死んでくれる人間の顔を思い浮かべた」と70人は退避させないでイチエフに残した。これはもう業務命令とか法令といったものを超越した個々の社員の倫理観や責任感、義理人情に基づくものであったと思う。日本の命運は最後はそれに委ねられたのである。
   確かに、原発は線量が上昇して誰も近付けなくなる、作業する人間がいなくなる事態は考えうる。しかし、朝日新聞の報道は、実際には退避せず残った70人の所員がいたこのケースを引き合いに出して、その指摘をするというのがそもそも「筋違い」であった。全員が一時退避していてもおかしくない事態において70人は残ったのである。
 「あの時、福島第二に一時退避しないで全員が残っていれば、もっとやれたことがあった」というのは、仮にそうだったとしても「後付けの結果論」でしかない。しかも、それは、東電社員はどれだけ被曝しようが構わないという考えに基づいており、私はそれには同意できない。(※実際には退避前まで事故対応として行われていたのは、中央制御室での原子炉の水位や圧力などのパラメーター確認と、冷却水の注水を行う消防車への給油・点検くらいで、作業に直接かかわる人はごく一部であったと聞いている)
   もちろん、事故が起きた時、誰かが命を懸けなければ原子炉がコントロール不能となり、国が壊滅的な被害をこうむるような発電方法そのものが問われなければならないことは言うまでもない。そして、それでもなお原発という発電方法を選択し続けるのであれば、いざ過酷事故が起きた時に、誰が決死の作業を行うのかということもあらかじめ法令等で決めておくべきだし、それをやらないままになし崩し的に再稼働を進めるとしたらあまりにも無責任だ。

2014年9月11日木曜日

「吉田調書」公開に際して

本日、政府は「吉田調書」を公開しました。「吉田調書」については、5月20日に朝日新聞が1面トップで「所長命令に違反 原発撤退」という見出しとともにスクープしたのを読んで、「これはとんでもないミスリードだ」と思いました。私は、実際に当時、福島第一原発の現場にいた社員から話を聞いていたからです。これは見過ごせない「誤報」だと思いました。当時、命懸けで事故の対応に当たっていた方々の名誉を著しく傷つけ、貶めることになるからです。私は「週刊サンデー毎日」に、朝日の報道を批判する記事を書きました。編集部に了解をいただき、以下に転載します。あらためて、この国の命運がかかった事故現場で命がけで収束作業にあたった、また現在も従事していらっしゃるすべての方々に、その仕事にふさわしい正当な評価と栄誉と待遇が与えられることを切望します。

※追記・・・朝日新聞は本日夜、社長が記者会見し、「所長命令に違反 原発撤退」という報道は誤りだったと謝罪し、この表現を取り消しました。

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朝日新聞「吉田調書」報道に異議あり!!
東電社員が明かす原発事故“敵前逃亡”の真相

ジャーナリスト・布施祐仁

〈やっぱり東電社員は逃げていたんだ〉
〈沈没するフェリー船の乗客を見捨てて自分だけ逃げた韓国の船長と同じだ〉
 ツイッターなどインターネットの投稿サイトには、こんな書き込みが相次いだ。
 政府事故調の吉田氏への聞き取りを記録した「吉田調書」をスッパ抜いた朝日新聞。第一弾として5月20日付朝刊で、東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、福島第1原発の所員の約9割にあたる約650人が吉田昌郎所長(当時)の待機命令に違反して福島第2原発に撤退していたなどと1面トップで報じた。
 これに対し、撤退した東電社員らにいっせいに非難が浴びせられた。冒頭の書き込みはまだ穏やかなほうで、中には全員の氏名を公表し、「過失傷害などの罪で処罰すべきだ」と主張する人まで現れた。
 私は「朝日新聞」の報道は、震災直後に命懸けで事故対応に当たった東電社員らの名誉を著しく傷つけるものだと思った。実際に当時現場にいた東電社員らに取材すれば、「真相」が記事とは大きく異なることは明らかだ。彼らはけっして、吉田所長の命令に背いて「逃げて」などいない。

 震災時、第一原発に勤務していた東電社員の松本健司(30代、仮名)は、自宅が被災し、家族とも連絡がつかなかったが、そのまま発電所に残って不眠不休で事故対応に当たった。
 現場が最も緊迫したのは、3号機の水素爆発に続き2号機で危機的事態が進行した、3月14日の夜から翌15日朝にかけてだという。
 「炉水位、ダウンスケール!下がりました!」
 14日午後6時47分、原子炉内の水位が計測限界値を下回り、核燃料が完全に剥き出しになったことが報告された。
 原子炉内の圧力が高すぎて、外から冷却水を注入できない。冷却できなければ、核燃料はメルダウンを起こし、約4時間で原子炉の底を溶かす。最悪の場合、溶け落ちた核燃料が原子炉の外側の格納容器の底まで溶かし、外部に漏れ出す「チャイナシンドローム」と呼ばれる破局的な事態にもなりかねない。 
 この直後、吉田所長は官邸と東電本店に直接電話し、事故対応に必要な最少の要員を残して一時退避を検討することを求めた。これを受けて、東電は退避に向けた準備に着手。想定された退避先は第2原発であった。
 この後、一時、原子炉の減圧に成功し注水できるようになるが、水位はなかなか上がらなかった。
 松本氏は当時、吉田所長らとともに免震重要棟内の緊急時対策室にいた。
 松本氏が証言する。
「ずっと水位計のデータを読み上げているんですけど、それが上がってこないので重い空気が流れていました。一度だけ水位が上がり始めた時があって、歓声と拍手が起こりました」
 しかし、安堵はつかの間であった。すぐに原子炉の圧力が高まり、再び水が入らなくなってしまったのである。炉心でメルトダウンが進む中、さらに格納容器の圧力も上昇。午後10時50分には、格納容器の圧力が設計の最高使用圧力を超える。
 このまま上昇を続ければ、格納容器そのものが破裂し、大量の放射能が大気中にばら撒かれかねない。内部の気体を外に逃すベントも試みたが、圧力は下がらなかった。

「残れと言われれば残っていた」

 事態が刻一刻と「終局」へと進む中、東京では東電本店と政府との間で退避をめぐる「攻防」が行われていた。政府は東電が「全員退避」を考えていると見て、これを阻止しようとしていた。
 翌早朝の午前5時35分、ついに菅直人首相(当時)が東電本店に乗り込み、幹部らを怒鳴りつけた。
「(撤退したら)日本の国が成り立たなくなる。命をかけてくれ。逃げても逃げきれないぞ」
 この場面は、第一原発の緊急時対策室にもテレビ会議システムで中継されていた。
 松本氏は、この時のことをこう振り返る。
「みんな白けてましたね。この人は何を言ってるんだろう、誰が逃げるんだって。逆に、本当に本店から全面撤退の指示があっても、半分くらいは地元の人間なので、『ふざけるな』と言ったでしょうね。まして(所長が)吉田さんだったので、撤退はあり得なかったです」
 この直後の午前6時15分ごろ、緊急時対策室に、2号機格納容器の圧力抑制室の圧力がゼロになり、衝撃音がしたという報告が届く。
 吉田氏は格納容器破損の可能性を考え、ただちに全面マスクを着用するよう命じ、「いったん退避してからパラメーターを確認する」と指示。本店の清水正孝社長(当時)も、最低限の人間を残した上での退避を命じた。
「みんな我先にと、全面マスクとタイベック(防護服)を取りに殺到しました。いつ何が起こるか分からないという緊迫感がありました。唯一、恐怖を感じたのはあの時だったかもしれない。防護服とマスクをつけて、急いでバスに乗り込みました」(松本氏)
 この時までは、考えられていた退避先は第2原発であった。だが、吉田氏はこの後、緊急時対策室の放射線量に大きな変化がなかったことから、「いったん構内の線量の低いエリアに退避して、本部で異常がないことを確認できたら戻ってきてもらう」と指示を修正する。
 このことはこれまで明らかにされてこなかったが、今回、「吉田調書」で判明した。朝日新聞が「所員の9割、所長命令に違反して原発撤退」と報じた根拠はこれだ。
 しかし、松本氏は、この吉田所長の命令変更を聞いていないという。なぜなら、この時にはすでに免震重要棟を出てバスに乗り込んでいたからだ。
「結構長くバスで待機していたので、その間に(新しい指示が)出たのでしょう。でも、僕らは2F(第二原発)へ退避という指示しか聞いていません。地元のためにも、どれだけ被曝しようがやらなければいけないという使命感が強かったので、残れといわれれば残っていたと思います。実際、次の日には1F(第一原発)に戻りましたし」
 松本氏は、退避した第2原発の体育館で5日ぶりの睡眠をとり、翌日には第1原発に戻った。爆発で吹き飛んだ超高線量のがれきが散乱する中で作業し、被曝線量が100ミリシーベルトに達するまで事故対応に従事した。
 同じく、この時に一時退避した東電社員の中川徹氏(30代、仮名)も、吉田所長の「構内退避」の指示をは知らなかったという。
「報道を見て、びっくりしました。僕らは指示に従って2Fに行っただけです。まず、全面マスクをつけて退避準備をしろと指示され、その後、退避の許可が出たのでマイカーで2Fに向かいました。逃げるんだったら、わざわざ2Fに行かないでしょう。実際、あの時は、中操(中央制御室)でパラメーターを確認するのと、発電機の給油をすることくらいしかできませんでしたから、最低限の人数を残して一時退避という判断は間違っていなかったと思います。残っていても、余計に被曝するだけですから」
 これが「命令違反」といえるだろうか――。 
 吉田所長は政府事故調の聴取に対し、「伝言ゲーム」で命令が正しく伝わらず、誰かが第2原発に向かうようバスの運転手に指示したと語っている。しかし、朝日の記事では、証言の全体的な内容がわからず、単に大半の所員らが所長命令に背いて逃げ出したように読める。真相は、混乱を極めた状況下、指示の変更がきちんと伝わらなかったと見るべきだろう。
 震災直後、原子炉建屋が立て続けに爆発する中で、最前線で事故対応に当たったのは東電社員だった。
 東電社員が一時退避する直前まで、彼らとともに事故対応に当たっていた東電協力企業のベテラン作業員もこう話す。
「何をするにしろ、どれだけ放射線量があるかもわからない中で最初に現場へ向かったのは東電社員でした。現場から免震棟に戻ってきて、ハァハァ言いながらそのままぶっ倒れる人を何人も見ました。みんな、とにかく目の前の事故を何とかしようと、体が動く限りやろうとしていたと思います」
 実際、今回の事故対応で100㍉シーベルト以上の高線量被ばくをした174人のうち、9割近い150人が東電社員である。こうした人たちに対して、「命令に背いて敵前逃亡した」などと濡れ衣を着せることは許されることではない。

会社にも社会にも評価されず

 「震災から3年が過ぎ、ようやく現場で働く方々を応援しようという風潮が出てきた矢先に、逆風に吹かれたような気分です。これでは、彼らのやる気を奪うことしか生みません」
 こう語るのは、元東電社員で、収束作業に従事する労働者を支援する活動をしている民間団体「アプリシエイト・フクシマ・ワーカーズ」代表の吉川彰浩氏だ。
 今、現場の東電社員たちの疲弊はピークに達し、収束作業にも影響を与えかねない深刻な事態になっている。
「汚染水対策などで業務量がどんどん増えるのに、人は増えない。長時間通勤やバラックの寮生活で疲れもとれない。世間からは白い目で見られ、いくら頑張っても会社からも社会からも評価されない。体力的にも精神的にも疲弊し、大きなトラブルが起きないか心配です」(吉川氏)
 被災した地元社員に対して、賠償を一部打ち切るなどの会社の対応も追い討ちをかけ、若手・中堅社員の退職も止まらない。吉川氏が支援活動を行っているのも、「社会の理解を深め、労働者の環境を改善することなしに事故の収束はない」からだ。
 被曝線量が100ミリシーベルトを超えたため、今は第1原発を離れている前出・松本氏は、また収束作業に呼ばれるのを待っている。しかし、同じように大量被曝して第1原発をいったん離れた同僚たちの間では、再び戻りたいという気持ちが徐々に薄れてきているのを感じるという。
「社会的に後押ししようという空気がないのが辛いですね。我々東電社員は、事故を起こした『加害者』としての立場は変わらないですが、頑張りに対しては正しく評価してほしいです」
 事故の収束・廃炉までは最低でも30~40年かかる。社会的な評価は、現場で働く人たちのモチベーションに直結する。現場作業の担い手なくして事故の収束なし――この「大原則」を忘れてはならない。
(「サンデー毎日」6月29日号より)