2016年6月8日水曜日

イラクと日本と地位協定〜「主権」への姿勢

*イラクと日本と地位協定〜主権への姿勢*
  吉川弘文館の「本郷」という冊子に2013年3月に「日本とイラクと地位協定」というタイトルで書いた文章です。地位協定は国家の「独立」「主権」に対する姿勢そのものだということを、イラクと日本の比較で書きました。

(以下、転載)

  二〇〇四年の元旦、私は自衛隊派遣直前のイラク・サマワにいた。
  街の中心部を歩いていると、多くの市民から「ヤバン(日本)、ウエルカム!」と声を掛けられ、歓迎ムード一色という雰囲気であった。
 あるガラス店の店長は「ジャパニーズ・アーミーには期待しているよ。日本のハイテクで、水や電気のシステムを新しくしてほしい。日本人は勤勉で正直だから、イラク人はみんな尊敬しているよ」と話した。また、教師をしているという男性は「軍隊はいらない」と言いつつ、「日本はヒロシマ・ナガサキに原爆を落とされて、今のイラクと同じようにアメリカに占領された。でもその後、〝平和の国〟になって世界一のハイテク国になった。イラクも日本みたいになったらいいな」と口にした。
 トヨター、ソニー、ハイテク、ヒロシマ、ナガサキ、ジャッキー・チェン・・・・・・最後は誤解だが、イラク人が日本について語る時によく出てくる単語である。イラクの人々は、品質の良い日本企業の自動車や電化製品、ゲーム機器などに憧れながら、戦争の焼け野原の中から復興と経済成長を成し遂げた日本の姿にイラクの未来を重ね合わせているようだった。
 あれから九年――。イラク戦争開戦から一〇年を迎えた今、イラクと日本を比べてみると少し複雑な心境になる。

   現在、イラクに米軍の姿はない。最高時で一七万人いたイラク駐留米軍は、二〇一一年の年末までに完全撤退した。各地にあった約五〇〇の米軍基地もすべてイラク政府に返還された。
 正直、これは私の予測を大きく裏切った。〇八年に結ばれたイラクとアメリカとの地位協定には、一一年末までの米軍撤退が盛り込まれたが、これは議会や国民から長引く戦争の「出口戦略」を示すように求められていた米ブッシュ政権と、選挙を控えて「イラクの主権回復」を国民にアピールしたいイラク・マリキ政権の思惑が合わさった結果だと見ていた。
だから、これは当然「更新」され、一二年以降も一部の部隊が留まり、主要な米軍基地は維持されるだろうと考えていた。日本でそうだったように・・・。
 実際に両政府は、イラクの軍隊や警察の能力はまだ治安を維持するのに十分ではないとして、数千人規模の米兵を「訓練教官」として一二年以降も残す方向で協議を進めていた。
 米側は、イラクに残る米兵について、刑事裁判権の免除を要求した。これをイラク側に飲ませるため、米政府高官や軍の幹部を次々と同国に送り込んだが、最終的にイラク側がこれを拒否したため交渉は決裂した。マリキ首相には、アメリカとの安全保障におけるパートナーシップまで壊そうという意図はまったくなかった。だが、米兵に対する免責特権については、国会で統一会派(「国民連合」)を組むシーア派の各勢力も含めて強い反対世論があり、とても容認できない政治状況であった。
 一方、アメリカは譲歩できなかったのだろうか?
 実は、一九七〇年代半ばのタイでも同様のことがあった。
 アメリカがベトナムから撤退した一九七三年、時を同じくしてタイでも軍政が倒され、選挙によって中立外交を掲げる文民政権が誕生する。そして、タイに駐留する米軍の撤退について協議を開始する。協議のなかでアメリカは、主要基地の維持を模索するが、米軍撤退を求める国内世論に押される形で、タイ政府はこれを拒否。一時は、タイ軍の「訓練」を名目に数千人規模の米兵を残すことに合意するが、「残留米兵には特権を認めない。タイの法律に従ってもらう」と条件をつけた。
   これに対しアメリカは「(米兵への)刑事裁判権をタイ政府が握るのなら、米軍を同国から完全撤退させる以外にない」(米解禁外交文書)との結論を出す。結局、七六年七月、約五万人いたタイ駐留米兵は二六三人の軍事顧問団だけを残して完全撤退。基地もすべて返還された。
   このように、アメリカにとっては、米兵への刑事免責特権はその国に駐留する際の「絶対条件」なのである。
   米イラク両政府が、米軍の一部残留について大詰めの協議を行っていた一一年九月、マリキ首相と電話会談を行なったバイデン米副大統領(当時)は、こう語った。
「(このままでは)米史上初めて不完全な免責のままで米兵を海外に駐留させることになる。我々は、兵隊や教官を免責なしでイラク国内に駐留させることには同意しない」
 
   なぜアメリカは、ここまで外国に駐留する米兵の刑事免責特権に固執するのか。その「ルーツ」は、一九五三年にまでさかのぼる。
 第二次世界大戦中、欧州を中心に展開していた米軍は、駐留国から完全な免責特権が認められていた。だが、これは枢軸国との「戦時中」がゆえのことであった。終戦後、ソ連との冷戦が始まったとはいえ、各国は駐留米軍に対して自国の主権適用を求めた。その結果、一九五一年に締結されたNATO(北大西洋条約機構)軍地位協定では、米兵が「公務外」で起こした犯罪については駐留国側が第一次裁判権を保持することとなった。
 しかし、これに米議会が強く反発し、肝心の米国がなかなか批准しなかった。最終的には、五三年七月に上院で批准されるが、「(駐留米軍の)司令官は、被告人が米国では与えられるべき憲法上の権利が保障されない危険があると判断した場合は、受入国の当局に裁判権を放棄すべきことを要請する」などとする決議が付された。以後、駐留国の米兵に対する裁判権行使をできる限り少なくさせるというのがアメリカの「大原則」となった。
   日本は、NATO軍地位協定締結後の五二年二月に、現在の地位協定の前身である行政協定をアメリカと締結する。この協定では、サンフランシスコ平和条約で日本は主権を回復したにもかかわらず、米軍占領下に引き続き、米兵に完全な免責特権を認めていた。これに対し、国民から強い反発の声があがったため、五三年一〇月にNATO軍地位協定並みに改定され、現在の地位協定と同様の刑事裁判権条項となった。国民も「真の独立の象徴」としてこれを歓迎した。
 犬養健法相(当時)は国会で、「国力を回復し、国の地位を回復するためには、国民は必ず刑事裁判権について自尊心の満足するものを要求するのは、どの時代でもどの国でも同じでありますから、この点は一歩も譲らずに参った」と誇らしげに答弁した。 
だが日本政府は、国民や国会議員の目の届かない日米合同委員会の一分科会で、秘密裏に「日本にとって特に重要な事件以外は裁判権を行使するつもりがない」と米側に約束していたのである。
   二〇一一年八月、外務省はようやく「密約」の存在を認めた。しかし、認めただけで撤回はしていない。現在もこの「密約」が機能していることは米側も認めているし、一般犯罪に比べて極めて低い米兵犯罪の起訴率がそれを証明している(詳しくは拙著「日米密約 裁かれない米兵犯罪」岩波書店)。
   昨年一〇月に沖縄で起こった米海軍兵二人による集団強姦致傷事件の直後、米軍は日本駐留の全兵士に夜間外出禁止令を出したが、その後も米兵犯罪は多発している。その原因に、米兵にさまざまな特権を認める地位協定の存在と「密約」を忠実に実行する日本の検察の姿勢があるのは間違いないだろう。
 戦争が終わって六八年が経っても米軍の特権を認め続け、米兵が我が物顔で振る舞う日本と、堂々と主権を主張して特権を拒否し、開戦から一〇年経たずして米軍の完全撤退を実現したイラク。ともにアメリカと戦争をして占領されたが、〝似てて非なる〟両国の現在を比べながら、「主権」というもののあり方を考えるのである。