2016年6月8日水曜日

イラクと日本と地位協定〜「主権」への姿勢

*イラクと日本と地位協定〜主権への姿勢*
  吉川弘文館の「本郷」という冊子に2013年3月に「日本とイラクと地位協定」というタイトルで書いた文章です。地位協定は国家の「独立」「主権」に対する姿勢そのものだということを、イラクと日本の比較で書きました。

(以下、転載)

  二〇〇四年の元旦、私は自衛隊派遣直前のイラク・サマワにいた。
  街の中心部を歩いていると、多くの市民から「ヤバン(日本)、ウエルカム!」と声を掛けられ、歓迎ムード一色という雰囲気であった。
 あるガラス店の店長は「ジャパニーズ・アーミーには期待しているよ。日本のハイテクで、水や電気のシステムを新しくしてほしい。日本人は勤勉で正直だから、イラク人はみんな尊敬しているよ」と話した。また、教師をしているという男性は「軍隊はいらない」と言いつつ、「日本はヒロシマ・ナガサキに原爆を落とされて、今のイラクと同じようにアメリカに占領された。でもその後、〝平和の国〟になって世界一のハイテク国になった。イラクも日本みたいになったらいいな」と口にした。
 トヨター、ソニー、ハイテク、ヒロシマ、ナガサキ、ジャッキー・チェン・・・・・・最後は誤解だが、イラク人が日本について語る時によく出てくる単語である。イラクの人々は、品質の良い日本企業の自動車や電化製品、ゲーム機器などに憧れながら、戦争の焼け野原の中から復興と経済成長を成し遂げた日本の姿にイラクの未来を重ね合わせているようだった。
 あれから九年――。イラク戦争開戦から一〇年を迎えた今、イラクと日本を比べてみると少し複雑な心境になる。

   現在、イラクに米軍の姿はない。最高時で一七万人いたイラク駐留米軍は、二〇一一年の年末までに完全撤退した。各地にあった約五〇〇の米軍基地もすべてイラク政府に返還された。
 正直、これは私の予測を大きく裏切った。〇八年に結ばれたイラクとアメリカとの地位協定には、一一年末までの米軍撤退が盛り込まれたが、これは議会や国民から長引く戦争の「出口戦略」を示すように求められていた米ブッシュ政権と、選挙を控えて「イラクの主権回復」を国民にアピールしたいイラク・マリキ政権の思惑が合わさった結果だと見ていた。
だから、これは当然「更新」され、一二年以降も一部の部隊が留まり、主要な米軍基地は維持されるだろうと考えていた。日本でそうだったように・・・。
 実際に両政府は、イラクの軍隊や警察の能力はまだ治安を維持するのに十分ではないとして、数千人規模の米兵を「訓練教官」として一二年以降も残す方向で協議を進めていた。
 米側は、イラクに残る米兵について、刑事裁判権の免除を要求した。これをイラク側に飲ませるため、米政府高官や軍の幹部を次々と同国に送り込んだが、最終的にイラク側がこれを拒否したため交渉は決裂した。マリキ首相には、アメリカとの安全保障におけるパートナーシップまで壊そうという意図はまったくなかった。だが、米兵に対する免責特権については、国会で統一会派(「国民連合」)を組むシーア派の各勢力も含めて強い反対世論があり、とても容認できない政治状況であった。
 一方、アメリカは譲歩できなかったのだろうか?
 実は、一九七〇年代半ばのタイでも同様のことがあった。
 アメリカがベトナムから撤退した一九七三年、時を同じくしてタイでも軍政が倒され、選挙によって中立外交を掲げる文民政権が誕生する。そして、タイに駐留する米軍の撤退について協議を開始する。協議のなかでアメリカは、主要基地の維持を模索するが、米軍撤退を求める国内世論に押される形で、タイ政府はこれを拒否。一時は、タイ軍の「訓練」を名目に数千人規模の米兵を残すことに合意するが、「残留米兵には特権を認めない。タイの法律に従ってもらう」と条件をつけた。
   これに対しアメリカは「(米兵への)刑事裁判権をタイ政府が握るのなら、米軍を同国から完全撤退させる以外にない」(米解禁外交文書)との結論を出す。結局、七六年七月、約五万人いたタイ駐留米兵は二六三人の軍事顧問団だけを残して完全撤退。基地もすべて返還された。
   このように、アメリカにとっては、米兵への刑事免責特権はその国に駐留する際の「絶対条件」なのである。
   米イラク両政府が、米軍の一部残留について大詰めの協議を行っていた一一年九月、マリキ首相と電話会談を行なったバイデン米副大統領(当時)は、こう語った。
「(このままでは)米史上初めて不完全な免責のままで米兵を海外に駐留させることになる。我々は、兵隊や教官を免責なしでイラク国内に駐留させることには同意しない」
 
   なぜアメリカは、ここまで外国に駐留する米兵の刑事免責特権に固執するのか。その「ルーツ」は、一九五三年にまでさかのぼる。
 第二次世界大戦中、欧州を中心に展開していた米軍は、駐留国から完全な免責特権が認められていた。だが、これは枢軸国との「戦時中」がゆえのことであった。終戦後、ソ連との冷戦が始まったとはいえ、各国は駐留米軍に対して自国の主権適用を求めた。その結果、一九五一年に締結されたNATO(北大西洋条約機構)軍地位協定では、米兵が「公務外」で起こした犯罪については駐留国側が第一次裁判権を保持することとなった。
 しかし、これに米議会が強く反発し、肝心の米国がなかなか批准しなかった。最終的には、五三年七月に上院で批准されるが、「(駐留米軍の)司令官は、被告人が米国では与えられるべき憲法上の権利が保障されない危険があると判断した場合は、受入国の当局に裁判権を放棄すべきことを要請する」などとする決議が付された。以後、駐留国の米兵に対する裁判権行使をできる限り少なくさせるというのがアメリカの「大原則」となった。
   日本は、NATO軍地位協定締結後の五二年二月に、現在の地位協定の前身である行政協定をアメリカと締結する。この協定では、サンフランシスコ平和条約で日本は主権を回復したにもかかわらず、米軍占領下に引き続き、米兵に完全な免責特権を認めていた。これに対し、国民から強い反発の声があがったため、五三年一〇月にNATO軍地位協定並みに改定され、現在の地位協定と同様の刑事裁判権条項となった。国民も「真の独立の象徴」としてこれを歓迎した。
 犬養健法相(当時)は国会で、「国力を回復し、国の地位を回復するためには、国民は必ず刑事裁判権について自尊心の満足するものを要求するのは、どの時代でもどの国でも同じでありますから、この点は一歩も譲らずに参った」と誇らしげに答弁した。 
だが日本政府は、国民や国会議員の目の届かない日米合同委員会の一分科会で、秘密裏に「日本にとって特に重要な事件以外は裁判権を行使するつもりがない」と米側に約束していたのである。
   二〇一一年八月、外務省はようやく「密約」の存在を認めた。しかし、認めただけで撤回はしていない。現在もこの「密約」が機能していることは米側も認めているし、一般犯罪に比べて極めて低い米兵犯罪の起訴率がそれを証明している(詳しくは拙著「日米密約 裁かれない米兵犯罪」岩波書店)。
   昨年一〇月に沖縄で起こった米海軍兵二人による集団強姦致傷事件の直後、米軍は日本駐留の全兵士に夜間外出禁止令を出したが、その後も米兵犯罪は多発している。その原因に、米兵にさまざまな特権を認める地位協定の存在と「密約」を忠実に実行する日本の検察の姿勢があるのは間違いないだろう。
 戦争が終わって六八年が経っても米軍の特権を認め続け、米兵が我が物顔で振る舞う日本と、堂々と主権を主張して特権を拒否し、開戦から一〇年経たずして米軍の完全撤退を実現したイラク。ともにアメリカと戦争をして占領されたが、〝似てて非なる〟両国の現在を比べながら、「主権」というもののあり方を考えるのである。

2015年1月18日日曜日

多重がんで労災申請した元1F作業員のインタビュー

今朝の東京新聞に、「元作業員『被ばくでがん』福島事故初期に従事 労災訴え:核心(TOKYO Web)」 という記事が出ていました。この記事で紹介されている元作業員の方には私も一昨年の秋にインタビューして、『世界』2014年1月号に書きました。編集部の了承を得て、以下に転載します。

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 福島第一原発の事故発生以来、収束作業に従事した労働者はこの一〇月で三万人を超えた。そのうち約三割は一〇~三〇代の若者で、今後、がんなど晩発性の健康障害の発生が懸念される。
 国は長期的ながん検診など「調べる」制度はつくったが、実際に発症した場合の包括的な補償の枠組みは存在せず、労災を申請するか、原子力損害賠償法により東電に損害賠償を請求するほかないのが現状だ。
 今年八月、二〇一一年七月から一〇月まで同原発で働き、その後、膀胱、胃、大腸にがんを発症した札幌市在住の男性作業員(五五歳)が労災を申請した。この男性に話を聞いた。

――イチエフで事故収束作業に従事したのは、どういう理由からでしょうか。

 震災の前は、ずっとダム造る仕事してたん。京極の山を上がった標高八〇〇メートルくらいの所にすり鉢状の池を、その下にダムを造って、夜間に余った電気を使って下のダムの水を上の池に汲み上げ、それを日中に落として電気を起こす。日本に四基しかないでっかい揚水式発電所。その仕事に一〇年以上行ってたんだ。ようやくダムが完成した次の年にあの震災だった。
 (イチエフの仕事は)震災直後の三月中からオファーはきてたけど、家内から「あんな危ないところ行っちゃ駄目」と言われて何度も断ってたんだ。でも、六月上旬に会社から電話があった時は、福島に行ってもらわないと次の仕事はないって言われた。当時は民主党政権で公共事業が削減されて仕事も薄かったし、それでしょうがなく引き受けたのさ。

――それで七月からイチエフで働き始めたわけですね。

 現地に着いたら、全国津々浦々から集まってきていた。頭を見たら白髪の人ばかりで、俺なんか若い方だった。
 まず、Jヴィレッジ(事故後、収束作業の拠点とされたサッカーのトレーニング施設)で放射線や装備なんかの教育を受けて、東電の試験を受けた。試験と言っても、教科書みたいのを見ながら記入していく。じゃないと、受かる人いないんだから。形式だけ。
 ちゃんと頭に入っているかというと、現場でマスクを外して水を飲んだりしたらいけないということくらい。あとは、なんぼ勉強したって、俺たちそんなに学がある人間じゃないから、右から聞いて左から抜けていく。

――恐怖心はありましたか。

 恐怖はあったね。もし、線量高いところだけ空気がピンク色になっているとかだったらわかるけど、目に見えないでしょ。だから、どこからどこまでが危ないかわからない。
 それに当時は、爆発した原子炉建屋からまだ煙がモクモクと上がっていたんだから。初日にあれを見て、みんなで「うわぁ、とんでもねえところに来てしまった」って言ってたんだから。ほんとすべてが恐怖だったよ。

――現場では、具体的にどんな作業をされたのでしょうか。

 俺たちは、ゼネコンのJVの無人化プロジェクトと言って、建屋周辺の瓦礫を無人重機で撤去していく仕事。
 一〇トントラックの荷台に箱が載かってて、中にモニターが何十台もあって、それを見ながら俺たちオペレーターが無人重機を操作する。オペは、(瓦礫を)挟む人と切る人と運ぶ人、そしてカメラを操作する人がいて、後ろには指示をする職長がいて目を光らせている。たまに東電社員も来ていたよ。
 無人と言うけど、全部無人ではできない。それが問題なんだよ。

――どういうことでしょうか。

 建屋の周りには、でっかい側溝みたいなのがたくさんあるんだ。その上に鉄板を並べて、そこに重機を載せて動かすんだけど、無人ではできないんだわ。
 俺も一五歳から重機乗ってるけど、あんなのは初めて。モニター見ながら操作するんだけど、見える範囲は狭いし、音もなければ感覚もない。エンジンがかかったかどうかも、カメラをズームインさせて煙が出てるかどうかで確認しないとわからないんだから。
 もし(重機が)側溝にずり落ちちゃったりしたら大事だから、そういう時は一〇キロ以上ある鉛のベストを着て、三〇分交代で重機に乗ってやったよ。
 それに、機械の爪では大きい物は取れるけど小さい物はとれないんだ。だから、東電に「もうちょっときれいにならないか」と言われて、しょうがないから重機で砕いた小さな瓦礫を手で持って運んだりもしたよ。元請の所長自身がやってるんだから、俺たちもやらないわけにはいかないでしょ。
 線量が高いから赤いスプレーで「×」印(触るなの意味)がされているような瓦礫も運んだよ。重たいから腹で押さえたりして運んだ。やりながら、これやべえなぁと思ったけど、そうしないとできないからね。そういうのは、数え切れないくらいあったよ。危ないから「無人化」ってなっているのにね……。

――そんな高線量の瓦礫を体に密着させて運んだら、APD(個人用警報付線量計)は鳴りませんでしたか。

 当然鳴るよ。APDが鳴ったら、普通は作業を中止しなければいけないんだけど、現場はそうじゃないから。そのまま作業続行するか、少し線量の低いところに移って作業するか。こんなもん鳴ったからって、毎回退避していたら仕事になんないからね。
 でもしばらくして、これじゃ一ヵ月もしないうちに線量満タンになっちゃうよって言って、みんなでAPD外して作業するようになった。重機に乗る時や車から降りて作業する時は、タイベックのチャックを下ろしてAPDを外し、車の中に置いて作業した。
 だから俺の被曝線量は、放管手帳には五六・四一ミリシーベルトって書いてあるけど、実際は一〇〇ミリシーベルト以上浴びてると思ってるよ。

 
――指示をする現場監督や職長は、それを知っていたのでしょうか。

 知っているも何も、彼ら自身もやっていたからね。
 でも、これはしょうがないんだわ。無人重機の操作を一通りやっと覚えた頃には三ヵ月くらい経ってしまってる。それで次の人が来るでしょ。でも、この人に教えなきゃなんない。50ミリが満タン(元請が決めている被曝上限)だとすると、50ミリを超えていても超えないように数値的には合わせて、この人たちができるようになるまで居なくちゃいけない。
 職長とか資格持った人はそんなにいないから、APDを置いていったりして俺たちより長くいる。お金が欲しいからいるんじゃなくて、そうせざるを得ないんだわ。そういう人は替わりがきかないから、四ヵ月のサイクルではまかないきれないんだわ。

――元請けのゼネコンもAPDを外していることをわかっていたと思いますか。

 わかっていたと思うよ、職長があれだけ長くいるんだから。見て見ぬ振りだよね。
 とにかく、言ってることとやってることが全然違うんだわ。朝の打ち合わせでは、あそこは線量高いから重機に乗るなよって言ってた所でも、やり出したら、覆工板が安定しないから重機に乗って有人でやったり。建屋の周りには太い配管とかバルブとかいろいろあって、実際に無人でやってバルブもいでしまって変な水が出てきたりしたこともあった。だから、結局は三〇分交代で機械に乗って有人でやるしかないんだ。
 原子炉の溶け落ちた燃料を冷却するためのホースや電源ケーブルなんかもむき出しであちこちに這っているからね。あんなのキャタピラで踏んづけたらアウトだから。だから、機械を移動させるのにも、すごく気を使うよ。
 重機だって、ものすごい線量被曝してて、キャビンには鉛をかぶせてるけど中に埃とかいっぱい入ってる。俺たちは、そういうのに乗って作業したんだ。大体、重機が壊れても、キャタピラだろうがコマツだろうがメーカーの人は部品を持ってくるだけで現場に来ないからね。普通は、壊れて電話したら、サービスですぐに来て直してくれるけど、あそこには来ない。

――ほかにも作業で大変だったことはありますか。

 とにかく、あの暑さの中で、あの装備でやることだよね。
 一日三時間の仕事だったけど、最初の頃は一〇時間以上使われた気分がしたよ。全面マスクして作業していると、中に汗ががっつり溜まるんだわ。しょうないから、あごのところに隙間を空けてジャーって流したり。それに、マスクの前面がよく曇って、曇るということは空気が漏れているということだから、もっときつく締めるでしょ。そうすると頭が痛くなってね。
 それで作業終わって免震棟に帰ってくるでしょ。サーベイ(汚染の測定)を待っている間に倒れている人いるんだから。タイベックを脱いで下着が汗でべちゃべちゃになっているところに、クーラーがガンガンかかってるから、急に体が冷えて倒れちゃう。俺も倒れそうになったことあるよ。
 こんな過酷な環境で仕事してるのに、元請のゼネコンの所長は俺たちにこう言ったからね。
 「ここで熱中症になって一人でも倒れたら、全員帰ってもらうからな」
 そんな馬鹿な……って思ったよ。みんな嫌々来たところに、あの猛暑の中で全面マスクつけて作業するのに、こんなこと言ったんだから。おかしいでしょ。
 実際に倒れたら、東電の社員が倒れた作業員を取り囲んで始末書を書かせてるんだから。「倒れたらこうなるんだぞ。気をつけろよ」って。でも、気をつけろと言ったって気をつけようがないんだから。

――四ヵ月間収束作業に従事して二〇一一年一一月にイチエフの現場から離れた後に、膀胱と胃と大腸にがんが見つかったとのことですが、経過を教えていただけますでしょうか。

 イチエフで仕事した翌年、宮城県の石巻に出張して震災の瓦礫処分とかの仕事をしていた。そしたら、ある日突然血尿が出て、びっくりして病院に行って検査したら膀胱に腫瘍があると言われて、すぐ手術したんだ。
 最初は、イチエフで仕事したことが原因だとは思わなかった。でも、今年になって東電からがん診断してくださいという文書が送られてきて、それで受けたら今度は胃と大腸にもがんが見つかった。それで、俺は絶対あれだなって確信した。だって、転移じゃなくて、全部原発性なんだから。
 イチエフに行く前も、毎年健康診断受けていたけど特に問題なかったし、うちの家系にはがんはいないから。こんなことって、あるかよって。

――なぜ労災を申請しようと思われたのでしょうか。

 最初は東電に電話したんだ。「がんが見つかったけど、どうすんのよ?」と聞いたら、「治療費は自己負担です」と。そんな馬鹿なことあるかって言ってやったよ。
 だって、がんになる可能性があるから病院に行って検査してくれと言ってるんでしょ。それなのに、
 実際にがんになったら自腹だから。「じゃあ、あとのことどうすんのよ?」と聞いたら、「厚労省が指定している作業員健康相談窓口に相談してみてくれ」と。
 それで、厚労省が指定している相談窓口で一番近い北海道結核予防会に行ってみたら、今度は「私たちではわからないので、市役所の窓口に行って相談してみてください」と。。市役所の相談窓口って言ったら、生活保護でしょ? 言うのは簡単だけど、生活保護受けるには、家だって叩き売らないといけない。
 いくらになるかわからない小さい家でも、俺からしてみれば二五年間のローンを組んでこれを買うのも大変だったんだよ。それを、イチエフに行ったがためにがんになって、あちこちたらい回しにされた末に相談窓口に行ってみたら、生活保護もらえ? 何で俺が、そんなことしなくちゃいけないの?
 俺、本当に頭にきて、また東電に電話してやった。そしたら今度は「労基署に相談してみたらいかがでしょうか」と言うんだ。それで札幌の労基署に行ったら、初めて親身に話を聞いてくれて、労災申請の手続きも教えてくれた。八月中旬には、福島の労基署の人が札幌まで来て、二日かけて聴取していった。

――建設業界では、重層的下請け構造の中で労災を起こした業者は上の会社から仕事を発注したもらえなくなることから、いわゆる「労災隠し」が常態化しています。そういう中で労災を申請することに躊躇する気持ちはありましたか。

 やっぱり悩んだよ。それをやったらどうなるかわかっているからね。
 でも、こうするしかなかった。だって俺、もう廃人だから。胃を全部とって、ご飯食べれないから一六キロくらい痩せた。膀胱がんの後遺症で、三〇分に一回トイレに行かなくちゃいけないので、夜も寝れない。こんなんで仕事復帰なんかありえないから。会社には去年の一二月に解雇されて、このままだったら使い捨てだから。それだったら労災申請するしかないな、と。
 病院もやたら金がかかるんだ。抗がん剤は三週間分で二万円以上。このほかに病院の診療代がかかる。もうすぐ傷病手当も切れるし、このままじゃ死ぬしかない。
 それで労基に相談したら、医療費だけはかからないようにしてくれたけど、それも立て替え。労災が認められなかったら返さないといけない。膀胱がんの抗がん剤治療で、一〇〇〇人に一人の確率で出る副作用に当たちゃって、今やっている最終手段の治療が駄目だったら膀胱をとらないといけなくなるかもしれない。そうなったら生命保険でなんぼか下りるので、それで何とかやっていこうと思ってる。
 労基署の人に「労災が下りるか、いつ決まるのか」と聞いたら、「何ヶ月か何年か、いつ決まるかはわからない」と言われた。でも、そんなことしているうちに俺死んじゃうよ。

――厚生労働省は、胃がんなどの労災認定の指針の中で、これまでの疫学調査の結果から固形がんの発症リスクが高くなるのは一〇〇ミリシーベルト以上だとしています。これについては、どう思われますか。

 そんなの問題外だと俺は思う。熱中症だって、同じ現場で作業していたって、なる人とならない人がいるでしょ。同じ線量浴びていても、病気になるかどうかは人それぞれだから。

――イチエフに行ったことを、今どのように思っていらっしゃいますか。

 こんなことになるんだったら、行かなきゃよかった。後の祭りだけどね。あの時、断って仕事干されても、行かない方がよかった。
 イチエフの免震棟には「作業員の皆様、命を顧みず来てくれてありがとう」なんて大きく書いてあったけど、いい法螺だわな。本当にそう思っているのなら、いざこうなったら「うちで何とかする」と言うはずでしょう。
 でも、厚労省の相談窓口に相談しろ、労基署に相談しろ、とたらい回しにして。東電の仕事をしてこうなったのに、東電のやつらは知らん顔。上の人間と話したいと言って連絡先を伝えても、電話もかかってこない。

――私がこれまでに取材した作業員の中には、イチエフの事故収束作業に従事できたことを誇りに思うと話す方もいらっしゃいましたが、そういうお気持ちはまったくありませんか。

 今となったら、そんな誇りなんてひとつもねえや。こんな糞味噌に言われ、しかも労災が通るかどうかもわからない。もっと大事にしてくれんなら違うと思うよ。でも、使い捨てだもん。こんな仕事には誇り持てない。
 俺が誇り持てるのは、さっき言った日本に四基しかない揚水式発電所の仕事に携わることができたこと。あの原発は誇りじゃねえ。あれは大きな迷惑、俺にしたら。
 これから先、俺みたいな病気になる人がもっと出てくると思うよ。問題は、病気になった時に政府がどうしてくれるか。イチエフの廃炉作業はこれから四〇年、五〇年かかるのに、こんな感じでやられたら誰も行く人いなくなるよ。自分の命かけて、あんなところ誰も行かんって。
 もし労災が下りなかったら、自分だけじゃなくてこれからの人たちのためにも、裁判にかけてたたかうつもりだよ。





2014年9月24日水曜日

線量が上がった時に誰が決死の作業をするのか?

   日本における原発の一つの未解決の問題は、いざ過酷事故が起きてしまった時、事故の拡大を防ぐために、誰かが急性症状が生じるような、あるいは致死量の放射線被曝をするリスクを負って作業する必要が生じた場合に、誰がそれをやるのかということが制度的に何も決まっていないことだ。
   電力会社やその協力企業には労働者の命や安全を守る義務があり、現行法令では緊急時であっても100mSvを超える被曝をさせてはならないことになっている(いま政府はこれを500mSvに上げようと検討している)。また、イチエフ事故後に定められた自衛隊の原子力災害対処計画では、自衛隊の活動は原発の構外に限定されている。
   本当の「決死作業」というものは電力会社の社員にも協力企業の作業員にも自衛隊員にも想定されていない。すなわち、事故で現場の線量があるレベルを超えれば、誰も近付けずコントロール不能となる。朝日の吉田調書報道も、おそらくこの原発の持つ本質を指摘したかったのだろう。しかし、だ。
   3月14日の夕方から翌15日の早朝にかけて2号機で破局的な事態が進行する中、東電本店や現場の吉田所長が、作業に直接関係のない所員の福島第二への一時退避の準備を進めたのは、社員の命と安全を守る義務を果たすための当然の行動であったと思う。
   そんな中で、吉田所長は「一緒に死んでくれる人間の顔を思い浮かべた」と70人は退避させないでイチエフに残した。これはもう業務命令とか法令といったものを超越した個々の社員の倫理観や責任感、義理人情に基づくものであったと思う。日本の命運は最後はそれに委ねられたのである。
   確かに、原発は線量が上昇して誰も近付けなくなる、作業する人間がいなくなる事態は考えうる。しかし、朝日新聞の報道は、実際には退避せず残った70人の所員がいたこのケースを引き合いに出して、その指摘をするというのがそもそも「筋違い」であった。全員が一時退避していてもおかしくない事態において70人は残ったのである。
 「あの時、福島第二に一時退避しないで全員が残っていれば、もっとやれたことがあった」というのは、仮にそうだったとしても「後付けの結果論」でしかない。しかも、それは、東電社員はどれだけ被曝しようが構わないという考えに基づいており、私はそれには同意できない。(※実際には退避前まで事故対応として行われていたのは、中央制御室での原子炉の水位や圧力などのパラメーター確認と、冷却水の注水を行う消防車への給油・点検くらいで、作業に直接かかわる人はごく一部であったと聞いている)
   もちろん、事故が起きた時、誰かが命を懸けなければ原子炉がコントロール不能となり、国が壊滅的な被害をこうむるような発電方法そのものが問われなければならないことは言うまでもない。そして、それでもなお原発という発電方法を選択し続けるのであれば、いざ過酷事故が起きた時に、誰が決死の作業を行うのかということもあらかじめ法令等で決めておくべきだし、それをやらないままになし崩し的に再稼働を進めるとしたらあまりにも無責任だ。

2014年9月11日木曜日

「吉田調書」公開に際して

本日、政府は「吉田調書」を公開しました。「吉田調書」については、5月20日に朝日新聞が1面トップで「所長命令に違反 原発撤退」という見出しとともにスクープしたのを読んで、「これはとんでもないミスリードだ」と思いました。私は、実際に当時、福島第一原発の現場にいた社員から話を聞いていたからです。これは見過ごせない「誤報」だと思いました。当時、命懸けで事故の対応に当たっていた方々の名誉を著しく傷つけ、貶めることになるからです。私は「週刊サンデー毎日」に、朝日の報道を批判する記事を書きました。編集部に了解をいただき、以下に転載します。あらためて、この国の命運がかかった事故現場で命がけで収束作業にあたった、また現在も従事していらっしゃるすべての方々に、その仕事にふさわしい正当な評価と栄誉と待遇が与えられることを切望します。

※追記・・・朝日新聞は本日夜、社長が記者会見し、「所長命令に違反 原発撤退」という報道は誤りだったと謝罪し、この表現を取り消しました。

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朝日新聞「吉田調書」報道に異議あり!!
東電社員が明かす原発事故“敵前逃亡”の真相

ジャーナリスト・布施祐仁

〈やっぱり東電社員は逃げていたんだ〉
〈沈没するフェリー船の乗客を見捨てて自分だけ逃げた韓国の船長と同じだ〉
 ツイッターなどインターネットの投稿サイトには、こんな書き込みが相次いだ。
 政府事故調の吉田氏への聞き取りを記録した「吉田調書」をスッパ抜いた朝日新聞。第一弾として5月20日付朝刊で、東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、福島第1原発の所員の約9割にあたる約650人が吉田昌郎所長(当時)の待機命令に違反して福島第2原発に撤退していたなどと1面トップで報じた。
 これに対し、撤退した東電社員らにいっせいに非難が浴びせられた。冒頭の書き込みはまだ穏やかなほうで、中には全員の氏名を公表し、「過失傷害などの罪で処罰すべきだ」と主張する人まで現れた。
 私は「朝日新聞」の報道は、震災直後に命懸けで事故対応に当たった東電社員らの名誉を著しく傷つけるものだと思った。実際に当時現場にいた東電社員らに取材すれば、「真相」が記事とは大きく異なることは明らかだ。彼らはけっして、吉田所長の命令に背いて「逃げて」などいない。

 震災時、第一原発に勤務していた東電社員の松本健司(30代、仮名)は、自宅が被災し、家族とも連絡がつかなかったが、そのまま発電所に残って不眠不休で事故対応に当たった。
 現場が最も緊迫したのは、3号機の水素爆発に続き2号機で危機的事態が進行した、3月14日の夜から翌15日朝にかけてだという。
 「炉水位、ダウンスケール!下がりました!」
 14日午後6時47分、原子炉内の水位が計測限界値を下回り、核燃料が完全に剥き出しになったことが報告された。
 原子炉内の圧力が高すぎて、外から冷却水を注入できない。冷却できなければ、核燃料はメルダウンを起こし、約4時間で原子炉の底を溶かす。最悪の場合、溶け落ちた核燃料が原子炉の外側の格納容器の底まで溶かし、外部に漏れ出す「チャイナシンドローム」と呼ばれる破局的な事態にもなりかねない。 
 この直後、吉田所長は官邸と東電本店に直接電話し、事故対応に必要な最少の要員を残して一時退避を検討することを求めた。これを受けて、東電は退避に向けた準備に着手。想定された退避先は第2原発であった。
 この後、一時、原子炉の減圧に成功し注水できるようになるが、水位はなかなか上がらなかった。
 松本氏は当時、吉田所長らとともに免震重要棟内の緊急時対策室にいた。
 松本氏が証言する。
「ずっと水位計のデータを読み上げているんですけど、それが上がってこないので重い空気が流れていました。一度だけ水位が上がり始めた時があって、歓声と拍手が起こりました」
 しかし、安堵はつかの間であった。すぐに原子炉の圧力が高まり、再び水が入らなくなってしまったのである。炉心でメルトダウンが進む中、さらに格納容器の圧力も上昇。午後10時50分には、格納容器の圧力が設計の最高使用圧力を超える。
 このまま上昇を続ければ、格納容器そのものが破裂し、大量の放射能が大気中にばら撒かれかねない。内部の気体を外に逃すベントも試みたが、圧力は下がらなかった。

「残れと言われれば残っていた」

 事態が刻一刻と「終局」へと進む中、東京では東電本店と政府との間で退避をめぐる「攻防」が行われていた。政府は東電が「全員退避」を考えていると見て、これを阻止しようとしていた。
 翌早朝の午前5時35分、ついに菅直人首相(当時)が東電本店に乗り込み、幹部らを怒鳴りつけた。
「(撤退したら)日本の国が成り立たなくなる。命をかけてくれ。逃げても逃げきれないぞ」
 この場面は、第一原発の緊急時対策室にもテレビ会議システムで中継されていた。
 松本氏は、この時のことをこう振り返る。
「みんな白けてましたね。この人は何を言ってるんだろう、誰が逃げるんだって。逆に、本当に本店から全面撤退の指示があっても、半分くらいは地元の人間なので、『ふざけるな』と言ったでしょうね。まして(所長が)吉田さんだったので、撤退はあり得なかったです」
 この直後の午前6時15分ごろ、緊急時対策室に、2号機格納容器の圧力抑制室の圧力がゼロになり、衝撃音がしたという報告が届く。
 吉田氏は格納容器破損の可能性を考え、ただちに全面マスクを着用するよう命じ、「いったん退避してからパラメーターを確認する」と指示。本店の清水正孝社長(当時)も、最低限の人間を残した上での退避を命じた。
「みんな我先にと、全面マスクとタイベック(防護服)を取りに殺到しました。いつ何が起こるか分からないという緊迫感がありました。唯一、恐怖を感じたのはあの時だったかもしれない。防護服とマスクをつけて、急いでバスに乗り込みました」(松本氏)
 この時までは、考えられていた退避先は第2原発であった。だが、吉田氏はこの後、緊急時対策室の放射線量に大きな変化がなかったことから、「いったん構内の線量の低いエリアに退避して、本部で異常がないことを確認できたら戻ってきてもらう」と指示を修正する。
 このことはこれまで明らかにされてこなかったが、今回、「吉田調書」で判明した。朝日新聞が「所員の9割、所長命令に違反して原発撤退」と報じた根拠はこれだ。
 しかし、松本氏は、この吉田所長の命令変更を聞いていないという。なぜなら、この時にはすでに免震重要棟を出てバスに乗り込んでいたからだ。
「結構長くバスで待機していたので、その間に(新しい指示が)出たのでしょう。でも、僕らは2F(第二原発)へ退避という指示しか聞いていません。地元のためにも、どれだけ被曝しようがやらなければいけないという使命感が強かったので、残れといわれれば残っていたと思います。実際、次の日には1F(第一原発)に戻りましたし」
 松本氏は、退避した第2原発の体育館で5日ぶりの睡眠をとり、翌日には第1原発に戻った。爆発で吹き飛んだ超高線量のがれきが散乱する中で作業し、被曝線量が100ミリシーベルトに達するまで事故対応に従事した。
 同じく、この時に一時退避した東電社員の中川徹氏(30代、仮名)も、吉田所長の「構内退避」の指示をは知らなかったという。
「報道を見て、びっくりしました。僕らは指示に従って2Fに行っただけです。まず、全面マスクをつけて退避準備をしろと指示され、その後、退避の許可が出たのでマイカーで2Fに向かいました。逃げるんだったら、わざわざ2Fに行かないでしょう。実際、あの時は、中操(中央制御室)でパラメーターを確認するのと、発電機の給油をすることくらいしかできませんでしたから、最低限の人数を残して一時退避という判断は間違っていなかったと思います。残っていても、余計に被曝するだけですから」
 これが「命令違反」といえるだろうか――。 
 吉田所長は政府事故調の聴取に対し、「伝言ゲーム」で命令が正しく伝わらず、誰かが第2原発に向かうようバスの運転手に指示したと語っている。しかし、朝日の記事では、証言の全体的な内容がわからず、単に大半の所員らが所長命令に背いて逃げ出したように読める。真相は、混乱を極めた状況下、指示の変更がきちんと伝わらなかったと見るべきだろう。
 震災直後、原子炉建屋が立て続けに爆発する中で、最前線で事故対応に当たったのは東電社員だった。
 東電社員が一時退避する直前まで、彼らとともに事故対応に当たっていた東電協力企業のベテラン作業員もこう話す。
「何をするにしろ、どれだけ放射線量があるかもわからない中で最初に現場へ向かったのは東電社員でした。現場から免震棟に戻ってきて、ハァハァ言いながらそのままぶっ倒れる人を何人も見ました。みんな、とにかく目の前の事故を何とかしようと、体が動く限りやろうとしていたと思います」
 実際、今回の事故対応で100㍉シーベルト以上の高線量被ばくをした174人のうち、9割近い150人が東電社員である。こうした人たちに対して、「命令に背いて敵前逃亡した」などと濡れ衣を着せることは許されることではない。

会社にも社会にも評価されず

 「震災から3年が過ぎ、ようやく現場で働く方々を応援しようという風潮が出てきた矢先に、逆風に吹かれたような気分です。これでは、彼らのやる気を奪うことしか生みません」
 こう語るのは、元東電社員で、収束作業に従事する労働者を支援する活動をしている民間団体「アプリシエイト・フクシマ・ワーカーズ」代表の吉川彰浩氏だ。
 今、現場の東電社員たちの疲弊はピークに達し、収束作業にも影響を与えかねない深刻な事態になっている。
「汚染水対策などで業務量がどんどん増えるのに、人は増えない。長時間通勤やバラックの寮生活で疲れもとれない。世間からは白い目で見られ、いくら頑張っても会社からも社会からも評価されない。体力的にも精神的にも疲弊し、大きなトラブルが起きないか心配です」(吉川氏)
 被災した地元社員に対して、賠償を一部打ち切るなどの会社の対応も追い討ちをかけ、若手・中堅社員の退職も止まらない。吉川氏が支援活動を行っているのも、「社会の理解を深め、労働者の環境を改善することなしに事故の収束はない」からだ。
 被曝線量が100ミリシーベルトを超えたため、今は第1原発を離れている前出・松本氏は、また収束作業に呼ばれるのを待っている。しかし、同じように大量被曝して第1原発をいったん離れた同僚たちの間では、再び戻りたいという気持ちが徐々に薄れてきているのを感じるという。
「社会的に後押ししようという空気がないのが辛いですね。我々東電社員は、事故を起こした『加害者』としての立場は変わらないですが、頑張りに対しては正しく評価してほしいです」
 事故の収束・廃炉までは最低でも30~40年かかる。社会的な評価は、現場で働く人たちのモチベーションに直結する。現場作業の担い手なくして事故の収束なし――この「大原則」を忘れてはならない。
(「サンデー毎日」6月29日号より)